昭和50年08月22日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けらるぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」

 精進をすればしただけのおかげ、おかげと信心とは合わせ鏡の様なと言う事を、惟は教えておられるのですね。先生が早起きをすれば信者も早起きをする。朝寝をしておれば、やっぱり信者も朝寝をすると云う訳です。分かりきった事の道理ですけれども、なかなかそれが出来ません。自分はゆっくり寝て信者だけは、早く目を覚まして参ってくれると良いと言った様な事が多いようです。うちの信者は中々行き届かない。先生自身が行き届いてないからであります。
 もう二十四五年も前だったでしょうか。ご本部の帰りにある長崎県の、何とかという教会の、もうお爺さんの教会、先生も一緒にお参りをしておられた。私は知らなかったけれども。丁度そこの所の、横の一角に他所の信者さん。こちらの一角に合楽の信者さんがおった。そしてまぁ合楽の悪口をまぁ当時は椛目ですね。椛目の神愛会の悪口を言いよったら、もう聞きかねたというか、堪り兼ねたとお爺さんが言われた。
 あんた方はよその教会の悪口ばっかり言いよるばってん、ここへ乗っとる信者は、皆んな、椛目の神愛会の信者じゃが、あの信者達の姿を見てご覧ち。これだけ行き届いた信者がおるのだから。先生が行き届いて御座らん筈は、絶対ないというてその言われたというのを、横に乗っておった人達が聞いて、お届けを帰ってされた事が御座いました。ですからその先生が言われたという、金光教の信心はね。それを見ていく以外ないです。とやこう言うておっても、あれだけのおかげを頂いておるではないかと。
 先日は松影会が、大善寺教会でありました。こっから秋永先生と佐田さんがおかげを頂きました。もう初めから最後まで、合楽のお話で持ちきったと云う事です。それもそうでしょう、この頃から幹部の方達がここで一夜信心実習会をして、大変おかげを頂いて帰った。時にあの一時の丁度、夏の信行にも会いましたものですから、あの様にもうそれこそ割れる様な、しかも若い者が中心になっての信行の中に入られて、信者さんたちがもう、ほとほと感心された。またびっくりされた。
 そしてまぁ二日間にわたる信心の研修をなさって帰られた、その余波もまだある事ですし。または先日の夏の祈願祭におかげを受けた方達が、今までお参りをしなかったのが、合楽の祈願祭に一遍参って見ろと言うて、参って来た方達が大変におかげを受けた。第一に善導寺の総代やら、岸先生が一番初めに開口一番言われた事は、私はどこの大祭にでも、時間を切って行った事がないと。
 何時も時間前にはキチッとおかげを頂く事にしておるが。もう私がすでに行った時には、総代幹部のかたたちがずうっと前に並んで、後にお広前に一杯の参詣者があったと。どうして合楽だけがこんなにおかげを頂くのか、ゴヒレイが立つのかというのは。過去において随分と合楽は椛目合楽を通して、皆んなから白眼視されて来た。そういう時に先生と信者とが、打っていちがんになる様な行き方になったのが、今日の合楽のゴヒレイだと、話されたと云う事です。
 中には色々とお話のあった中に、どうでしょうか皆さんお互いの教会の、まぁせめて幹部だけでも合楽の教会にお参りをさせて貰うて。信心を教えて貰いげ行くと言う様な風にしたら、どうだろうかという話が出たそうです。勿論これはもう真っ向から反対をする方があって。勿論しかし本当言うたらね。本当言うたらやっぱりそうです。こりゃ信者じゃない先生を先頭にして信者を引き連れて、今合楽で頂かれておる信心を頂かれたら絶対合楽流のゴヒレイが立つです。
 その証拠にはここで関係教会の。例えば日奈久とか末永先生とこ辺りなんかの場合は、事実おかげを受けておる。だから是は信者だけではない。先生がその気になって。合楽に言うならば教えを求めてくるというか合楽の行き方をです。あぁいう例えば現在人が助かっておる。おかげを受けておるのがね。ただ偶然とか腑が良いと言う事では無い。どこにかあのゴヒレイの元があるに違いは無いと、そこを追求して来るならば、私はそういう話題が話題になったと言う事ですけれども。私はおかげが頂かれる。
 先日から甘木教会の、野営場が御座います。たくさんな山広い敷地を、いろいろまぁ会合に使うための山があり川があり、まぁいろんなキャンプなんかには持って来いと言う様な、行った事はないですけれども、素晴らしい野営場だそうです。そこでここの筑水関係の二十何ヶ所の教会のマルショウが集まって、キャンプを致しました三日間でしたか。ここからリーダーの方たちを合わせると、ちょうど二十名おかげを頂きました。全部で四十一名であったそうです。
 「そんなら、甘木教会辺りは、随分多かったろうもん」ち言うたら、いや甘木は先生方がね、修行生の先生方がもう何日も何日も前から、ここからもあの光昭やら、あのここのリーダーの方達が、それをする為の御用に何日も行きまして、子供達が色々と行事を進めて行く事の為の準備を、まぁして下さってあります。まぁ流石に甘木である。本当に素晴らしい行き届いたお世話を頂いたというております。
 けれどもどんなに考えても、まるきり合楽のために筑水の主だった先生方、マルショウ関係のが何日も何日も、会合をなさったり、また御用をなさって、このキャンプ場を使わせて貰ってもう実に楽しい、愉快なまた有益なキャンプをさせて頂いたが、本当に合楽の二十名の者の為にして頂いとったと言う感が強かったと、帰ってきていうております。二十何ヶ所の教会から、一名づつ行ったっちゃね二十名はおる。所が行ったら久留米地区なんかは全然、もう合楽だけであったそうです。
 マルショウがいない訳です。さしもの甘木の教会も、何名かしか子供は来てない。しかし本当に私はまぁ、思いますのにね。神のヒレイが落ちたらもう駄目ですね。神のヒレイによって違うと。最後に皆んなが作文を書いて提出した。合楽の二十名の子供達はもう皆んな、そこに生き生きと神様の躍動を綴っておった。これにも驚いてしもうた。子供なりにもう言うならばおかげ話が出来ると言う事です。子供なりにも所謂おかげを神様を身近に頂く事が出来ておると言う事です。有難い。
 昨日一昨日は佐賀のある教会のご信者さんで、研修しておる。ここで研修会に参加して、それからこの前の大祭にもおかげを頂いたけども、あんまり多かったからお届けが出来なかったからと言うて、わざわざお礼に出て見えました。研修会の帰りに始めの間は、誰だってまぁ、合楽の教会ちゃどげんとこだろうかと思うて、塩梅見にというか見に来た様な人達やったけれども、段々話を頂いていっておるうちに、あくる日は愈々有難うならせて貰うて。ここでお届けをして帰られた。
 そういやほんにあのお届けをなさった方でしたねと言うて、話した事でしたけれど。息子さんと娘さんが行き遅れやり遅れです。ですからもうこれは幾ら見合いをしても、あの纏まらない。勿論その教会で随分お願いなさっておられるけれども、おかげ頂けんけん半ば諦めとった。で、その事をお願いして帰りましたら、それからまぁだ一ヶ月余りでした。の間に二人の縁談が纏まった。
 しかも向こうも喜んで貰う、こっちも喜ぶと云う様な素晴らしい縁談が、息子と娘が二人ながら、おかげを頂いたというお礼参拝がありました。結局この九十二節に言われているように天地金乃神様は変わりはありません。けれども守り守りの力によって、神のヒレイが違うのぞと。そこで私は思うんですけれども、ほんならここで私が力があるとも思いません。昨日でしたか私はあの一昨日でしたかね。当時の椛目に過ぎたる事が三つあるというて一つは忘れとった。
 当時の椛目のお広前で過ぎたる事が三つある。一つはおかげが過ぎて信者が過ぎて、信者と先生の仲が良すぎるという、過ぎるものが三つあると言うのである。まぁほんなごてもうそう言われてみればその通りでした、その当時の椛目は。もうそれこそ奇跡的なおかげがどんどん現れて信心も出来んのに。それに惟は神様が私に言うて下さったんですけれども、信者がお前の信心にしちゃ信者が過ぎとる。良すぎるその良すぎると云う事は、どう言う事だろうか。
 先日のその松影会の会合で、真っ向から反対をされた方が、一丁田の教会の大変熱心なお婆さんだったそうです。私はその話を佐田さんから聞かせて頂いて、その通りだと思わせて頂いた。わざわざどうして合楽まで習いに行く事が要ろうか。お互いの銘々の教会で、しっかりおかげは頂かれる。それにはねお取次ぎを願う先生を、生神金光大神様と思うて、お取次ぎを頂かせて貰うたら、生神金光大神の働きが現れおかげは頂かれる。わざわざ合楽まで行く事は要らんと云う事だったそうです。
 その通りです。信者が過ぎてると言う事は、私はそういう信者がとうじの椛目にはおったと云う事です。一丁田のお婆さんが言われる。それはまた熱心なお婆さんです。お取次ぎを下さる先生を、生神金光大神様として頂いたら、生神金光大神様としての働きが現れる。皆んながいわゆるご結界で、ぽんぽんと柏手打って如何におがんでも、心の中にそれを生神金光大神様として頂けなかったら、おかげはありません。そこでそのお婆さんの信心ですけれども。
 何回か前の御大祭の後に、そのお婆さんがお説教をなさる先生に代わってお話をされました。もう自分の所にはもう子供達が生活はちゃんとしていってくれる。自分の事は子供達が見てくれる。そこで自分の働きの全部は、お供えだと言う程しの熱心な方です。あすこにまぁ今度の記念祭に、まぁ改築かなんか増築かがあったそうですけれども、その殆どがそのお婆さんのお供えだと云う事です。
 自分の働きの全てが、いわゆる、教会へのお供えだと云う位な打ち込み方。そういう打ち込み方をさせて頂く所にです。ご結界の先生が生き神様として拝めれる様になるのです。ただ柏手打って、ぽんぽんとご結界を拝んだだけではつまらん。そこで思われる事はです。信者も一つ、そういう打ち込みをさせて貰うて、先生が拝めれる様にならにゃならんと同時に、先生自身もです。
 やはり拝めれる様な先生になる事の精進を、やっぱりしなければいけない。そこんにきに、信者と先生の、いうならば、当時の椛目の様に、おかげが過ぎて、信者が過ぎてというか。合楽には恵まれておる。当時の椛目に恵まれておった。良い信者が沢山おった。しかも先生を生神様の様に扱われる信者さん方があった。それが当時の椛目のゴヒレイであったと思います。
 昨日、ある先生がここでお届けを、先日ある共励会に参りました時に、ある熱心に信心をなさる方が、あるお届けをなさった。お届けと言うよりも、質問をなさった。どういう質問かというと、お取次ぎを頂いて。おかげを頂く。けどもお取次ぎを頂かんでん、おかげ頂くとは、どういう訳でしょうかと言う質問であった。「妙な質問じゃったの」と言うて言うた事でした。
 お取次ぎを頂いておかげを頂く。ばってんお取次ぎを頂かんでん。言うなら参らんでも、おかげを頂くと言わんばかりの質問である。「で、あんたは、どげん思うとるの」ち言うてみりゃ良かったのち、私が申した事でしたけれどもね。日頃頂いておる、お取次ぎを頂く、先生の信心を頂くと云う事は。信ずると云う事である。どう信ずるかというと、親先生は。合楽なら合楽の教会にご縁を頂いておる全ての信者の上に、日夜、熱い御祈念をしておって下さる。
 その親先生の祈りの圏内にあるのだから、おかげを頂く筈だと云う事です。又取分け不安な事やら、心配な事があると、わざわざでも、そりゃお取次ぎを頂に行くけれども。それは又特別のおかげであって、問題はお取次ぎを頂いても、お取次ぎを頂かんでもおかげを頂くと言うのは。日頃お取次ぎを下さる先生の祈りが、頂けておるからこそ、おかげを頂くんだと。そこで思わせて頂くのが、いよいよこういう有難いおかげの中にあって、勿体ないと云う事になる。
 こうお生花の花の材料の様なのを、紙にこうみんなが包んで、こうあのありますねあの、お生花の稽古に行った帰りにはお花を下げて帰られよるです花を紙に包んで。紙に包んであるけれども中には花がない。外側に菊の花の様な花が幾らか紙の外にこう紙は巻いてあるけれども、外に出ておると言う様な御神願を頂いた。私達が思わせて頂かなければならん事はです。何時もこの神の中にあるんだと。
 何時も神様の深いご慈愛の中にあるんだと。しかも金光大神音取次ぎの親先生お取次ぎの働きの中に、何時も包まれておるんだという実感がないから、そう言う事を言わなければならんのです。お取次ぎを頂かんでもおかげを頂くとは、ありゃ先生どう云う訳でしょうか。そげん取次ぎを頂くと言うてずうっと何時もかつも、ご結界に出て来とかんならんと言う様な偏見ですこれは。例えばそう言う様な事がです。
 如何にお取次ぎを頂く者とお取次ぎをさせて頂く者の、言うならば翻然とした一体感というものが、金光教の信心にはなからなければ出来ない。言うならおかげのあるも無きもわが心であって。親先生を本当に頂くというその心がです。親先生のお取次ぎの働きをまた十全なものにして行く。お取次ぎを頂く事によっておかげを頂く。そこでね結局お互いの信心がです。何時もしゃんとしておらなければならないと言う事です。お取次ぎをさせて貰う先生もお取次ぎを願う者の信心も。
 しゃんとした心としゃんとした心がね。通い合うんです。それが教会のヒレイともなりゃ銘々の家でのヒレイともなるのです。昨夜夜の御祈念は、まぁ殆ど私この頃出て参りません。出ようと思うとるけれども、それこそ前後不覚に休んでしもうとる。夕食を頂く時にお神酒をこの頃頂きますね。久富先生のそれこそ、相手をさせて貰うもんですから。先生はまぁまぁだ少し足らんごたる風でこっちはもう、こちらんとを盃二杯づつそれで焼酎一つ一杯注いでやったっちゃまだ足らんごたる風で。
 こっっちはもう飲みもされんぐらい。そして私の足をしっかり揉んで下さるけれどももう、最後まで覚えとった事が無いぐらいに寝てしまって、もう目を覚ましたら九時ち言うごたる風で。夕べは丁度八時二十分ぐらいに目が覚めました。だから今から奉仕着付けて出れば、最後の御祈念だけは出来るけれども、まぁだその酒の酔いがちっと残ってるごたる風できつい。そしたら博多帯の中に線が一本ぽんと入った、博多帯の帯をぱっと御心眼に見せて下さった。
 線が一つ通っておるという博多帯。もうそれこそ飛び上がる様にして起きました。あの信心の帯をせよと云う事は、しゃんとせよと云う事ですね。しっかり信心の帯をせよと仰るが、それはどう云う事かというとしゃんとせよと云う事です。恐らく私がお知らせを頂かなかったら、夕べも御無礼したに違いありません。勿論私はあの夜の御祈念に出て参りません。酔いが醒めた頃また出て来る、必ず奉仕着を付けて出て来ます。
 そしてやっぱり一日の、皆さんのお取次ぎさせて頂いたのを、また一応目を通させて貰うて、御祈念をさせて貰ます。けれどもお食事とその夜の御祈念が、少し近過ぎるもんですから、そのもう前後不覚に寝てしまう訳です。それでも昨日はほんなら八時二十分ぐらいに、ここは九時ですから丁度出て参りましたら、末永先生が当番で御祈念をして御理解を説いてるとこでした。そしてやっぱ出て来れば出て来るで、幾らも私がお取次ぎをさせて頂いてる方達が、やっぱり参って来ておった。
 このしゃんとすると云う事ですよ。だらっと信心が続いておるというのじゃないです。そういう意味で皆さんが朝参りをしてみえる、その心というものはそりゃ楽な事ばかりは無い。気分よう目が醒めると云う事ばっかりは無い。もう今日だん御無礼しようかという時もあろうけれどもです。それこそ神様から。いうならばその私が夕べ御心眼に頂いた。帯を頂いた様な気持ちで。
 神様がしゃんとせよと、言うて下さっておると思うて、こちらがしゃんとする、その心と、先生のしゃんとしたお取次ぎと、しゃんとしたお取次ぎを願う者とが交流して、初めて教会のヒレイともなるのです。最後にあります所はです。とにかくしゃんとした信心をすれば、しゃんとしたおかげがちゃんと頂けるという意味の事が書いてあります。朝寝をすれば、信者が朝寝をする。早起きをすれば、信者が早起きをする。
 先生が出来れば信者も出来る。所がです矢張り人間ですから出来とる様であっても、出来たり出来なかったりの所がありますけれども。そこん所を言うならば言わばあいよかけよです。本当に信者さん方の熱心な姿に触れて、改めて取次ぎ者がしゃんとする事があります。かというとだらっとした気持ちで参っておっても、お取次ぎをなさっておられる先生がしゃんとしておられる、あの姿勢に触れたらもう来たお広前に着いた途端に、おかげを頂く気が致しましょう。
 ですからそういう働きがです。働きあいが出来なければならない。この九十二節は恐らくは、お取次ぎをなさる先生に対する御理解で御座いましょう。けれども今日はそういう先生だけが頂く御理解ではなくて、矢張りこの九十二節を信者も頂かせて貰わなければならない。そしてそこに新たなヒレイを生みなして行くと云う事は、お互いがしゃんとしとらん時には、親先生の信心を見てしゃんとする。先生がだらっとしておる時には、信者のしゃんとした人の信心に触れて、しゃんとすると云う様にです。
 あいよかけよでひとつしゃんとした信心させて貰うて、そしてしゃんとすりゃしゃんとした方ある信心をです、現してしゃんとしたおかげ言うならしゃんとしたと云う事は、ヒレイと云う事です神様の勢いが生き々として見えると云う事です。今朝からここに出て参りました時に直子が言うておりました。今度のキャンプに行ってからもうどんなに考えても、合楽が大きくなる事の為にこれだけの沢山なリーダーの方やら、先生方が準備をしておって下さったというより他に思い方はなかったと言うております。
 合楽が大きくなる事の為に、言うならば万屋からデパートになる事の為に。ここにひと気張りしゃんとしなければならない、いうなら時期が来ておる到来しておる。教会が大きくなると言う事は、そのまま皆さんも一緒に大きくなって行かなければならん。又おかげを頂かなければならない、便乗させて貰わなければならない。為にも生き々としたヒレイが矢張り輝かなければならん。それにはね生き々としたヒレイというのは、何処までもねしゃんとした心からしか生まれて来ない。
 だらっと何十年信心が続いとりますと言う様な事じゃ駄目だ。触れば熱っと言う様なものを感じる様な。突いたらちょいと血が飛び出る様な、生き々としたしゃんとしたものを取分けです朝の御祈念でも、お参りなさる方はです。もう眠うして眠うしてもう御祈念中は眠るとが楽しみち言うごたる風で、参って来る人も中にはありますけれどもね。それではいけんですよ。しゃんとせにゃいけません。しゃんとしたものがヒレイを呼ぶのです。愈々大きくならせて頂く為に神様はね。
 早ければ早いだけのおかげ遅ければ遅いだけしかないと言う事を、はっきり言っておられるのですから。それこそ岸先生が、松影会で挨拶の一番に言われた様に、もう時間には総代さん幹部の方達がお広前一杯であったと、感心して感動しておられるのです。だからそういう信心が、如何に他にも影響を及ぼすかと云う事が分かるでしょう。だから皆さんでもそうです。月次祭なら月次祭でも大祭でも同じ事。今度の場合は期せずして出来ておったと言うのですけれども、合楽の人達の場合は。
 そのしゃんとした所が欠けておる様な感じがする。ほんなら朝の御祈念なら、朝の御祈念でもです。朝の五時の御祈念にもうこれだけの人が集まっておったらです。素晴らしかろうと私は思うです。唯御理解に間に合いさえすりゃ、まぁ朝参りさえすりゃと言う様な事ではなくてです。これはねもうしゃんとすれば必ず出来るです。そこからしゃんとしたゴヒレイが輝くのですから。矢張り同じ朝参りでも一つ工夫しなければいけません。しゃんとした朝参りをさして頂きたいですね。
   どうぞ。